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#広報・人事

広報兼人事「なっつん」の軌跡…

はじめに

株式会社くれよん広報兼人事を担当しています「朝妻奈月」と申します。

今回は私のこれまでについて書いてみようと思います。

少しでも見て頂いている皆さんに私のこれまでが参考になればと思っています。

私のこれまでに始まり、私が入社した理由、私から見たくれよんの仲間達など…

赤裸々に文字に起こしていこうと思います。

読んでいただけると嬉しいです。

1.私のこと
①私の学生時代
②第1の人生~夢を失う20歳…~
③第2の人生~営業職との出会いと始まり~
④第3の人生?~株式会社くれよんと稲田社長との出会い~

2.くれよんに行くと決めた理由

3.今後の展望と広報人事としての課題

4.最後に…

1.私のこと

改めて私のことから書きたいと思います。

私の名前は朝妻奈月(アサツマ ナツキ)と申します。

2022年6月より正式に株式会社くれよんの広報と人事の立ち上げを任せて頂き、関東からここ関西にやってきました。

実は私…人生で初めてこの「広報と人事」の職に就いています。

なぜ…こんな右も左も分からない私がくれよんの広報兼人事の立ち上げを任せてもらっているのか…

夢を追っていた学生時代からこれまでを振り返りつつ、自分なりに記していこうと思います。

恥ずかしさもありますが…せっかくなら私のこれまでの人生が皆さんの何かお役に立てますように…

①大学進学を選ばず、夢を追った高校時代

私は高校卒業まで地元の新潟県で育ちました。

高校時代は主に部活動三昧…

全国でも有名な名門校のダンス部に所属し、毎日朝から晩までダンスの練習をしていました。

強豪校であった事もありダンス部での実績を武器に大学進学をする事を周囲からは勧められていました。

そんな私の青春時代、

世の中は「カリスマ美容師」や「カリスマシェフ」といった言葉が流行し、職種のスポットライトは「職人」にあたっている…そんな時代でした。

元々料理好きであった私は高校自体も「食を学ぶ」専門学科を選び入学していたこともあり、大学進学よりも「料理人になりたい!」と本気で思っていました。

私が憧れていた『料理人』の世界は当時まだまだ男社会。

今では厨房に女性がいるなんて当たり前かもしれませんが、当時は女性がいてもパティシエ担当。

料理を作る料理人は男性!と決まっていたのかと思うような位な時代でした。

そんなこともあり家族からは心配され、大変だから!と反対のようなことも言われました。

家族に対しても「やってもないのになんで大変だと思うの!?」と反発もしていたくらいでした。

なぜなら私が思っていたことは家族の不安や心配とは正反対で「もし、男社会で女性が活躍出来たら…それは間違いなくカッコイイ!」と本気で思っていたからなのです。

そんな私は家族の反対を押し切り大学進学せず『料理人』になる事を決めました。

私は高校卒業と同時に調理師免許を取得し、プロの料理人を育てる養成所のような学校に通うために上京しました。

初めての一人暮らしを楽しみながら料理の勉強し、19歳にして私は念願の『料理人』になったのです。

②第1の人生~夢を失った20歳~

無事に憧れの『料理人』になれてから半年が過ぎたころ…

私の身体に不調が現れました。

症状は本当に日に日に酷くなりました。

どんな症状だったかと具体的に言うと、

朝起きると全身に蕁麻疹が出ている。更に倦怠感に襲われ、起きるのもやっと…仕事に行けないという状態です。

毎朝そんな症状であったため、私のルーティーンは起きて即自転車に乗り病院に行く。

病院のベッドで点滴を打ち横になり休む。点滴を打つと症状が回復するため、その後お店に出勤する。

ランチ営業とディナー営業を行い、清掃し帰宅し就寝する。翌朝また全身の蕁麻疹と倦怠感と戦い、病院に行く…嘘のような話ですが本当の話で(笑)毎日この繰り返しでした。

後にこれが食物アレルギー症状だと知りました。

当時はアレルギーに関してそこまで世の中も敏感ではなく、まさかこれまで大好きだったエビやカニが原因でなっているなんて知らなかったのです。

入社1年目ということもあり、体力的や精神的にきているのかな…と当時は思っていました。

毎日楽しく、シェフやセコンド(スーシェフ)に褒められたら本当に嬉しくお客様が笑顔でご帰宅される姿を見て満足していました。だからこそこのような体調でも私は『料理人』をやめる!という考えは一切ありませんでした。

一方で、病院の先生は「仕事は他にもあるからさ!」と言うのです。ようはドクターストップってやつですね…(笑)

私は当時やっとかなった夢なのに…という想いから「嫌です!最低でも3年は続けます!」と言っていました。

今思えば…ですが「そりゃ辞めなさい!といわれますよね…」と思います。

アレルギーは本当に怖いと今だから分かります。

今でも私は一切、エビ・カニの甲殻類を食べることができません。

食べることができないだけでなく、触ることすらできません。あれだけ捌いていたのに…

誤って食してしまった時、以前よりひどい倦怠感に襲われたからこそもう駄目なんだ…と身をもって知りました。

当時、病院の先生が何度も止めた理由、辞めなきゃいけなかった理由が自分に落とし込めた瞬間でした。

そんなことから私は念願叶った『料理人』を諦め、入社1年で早期離職をしました。

その後私は体調を回復させることに専念し、しばらく定職に就くことなく、アルバイトをしていました。

夢を失い、絶望的なそんな時に私は今に繋がるであろう1つの感情と巡り合いました。

その感情は「悔しい!!」という感情です。

本気でやりたいと思ったことが出来なくなり本当に悔しかったです。

更に私は「料理以外に何も出来ない」という現実にも直面しました。

この「悔しい」という感情と向き合い考えた結果、

私は「やりたい!と思った時に何でもできる自分になりたい!」と思うようになり今に至ります。

③第2の人生~営業職との出会いと始まり~(24歳~)

「やりたい!と思った時に何でもできる自分になりたい!」と思った私は「どんな職だったらそんな自分になれるのか?」と自問自答を繰り返し「営業職」にたどり着きました。

そうは言うものの…全く営業職の事を知りません。

「何でもできるようになれる!」根拠も無ければ営業職がどんな職なのかすら…

私は知らなかったのです。

無知って怖いけどある意味強いですね(笑)ほんとそう思います。

だからこそ営業職に対する恐怖心や不安など…

ネガティブなことを一切考える間もなく営業職に飛び込めた気がします。

営業職は比較的に人手不足で受かりやすい!なんて言われていても、名刺交換のやり方すら知らない私ですから、そんな簡単に合格するわけもなく…

そして今でこそ女性営業マンは多いですが、当時はまだまだ営業職は男性の職!なんていうような時代でした。

どうしたら私は営業職に就くことが出来るのか…と考えた結果、「アルバイトから頑張ろう!」と思ったわけです!

本当に私は単純です(笑)よくもまぁ…(笑)今思えばそう思います。

そんなこんなでアルバイト募集をしていたテレマの保険代理店に入社したのです。

取扱商材はもちろん保険商品です。

ご想像通り…本当に難しい商材で更には電話での販売…もう困難しかないですよね(笑)

入社から半年ほどの間、私は20万円(単価2万5000円程)を売るのがやっとといった低生産な人間でした。

『営業職…私は無理なのかも…』と何も努力していない私はそう思っていました。

そんな時にとある出来事から、また「悔しい」という感情に私は直面したのです。

当時の上長は私にこう言ったのです…

「同世代の新卒達は新卒だからと優遇されている。当たり前だが正社員。アルバイトのお前とは待遇もお給料も何なら働ける時間も会社からの信頼も違う…そんな環境で悔しくないのか!!」と。

正に図星ですから悔しくて、悔しくて…部署全員の前で号泣したことを覚えています。

涙がボロボロ流れ落ちる私に上司がこう言いました。

「俺もお前と同じ年齢の時、中途で同じ環境だった。偶然かもしれないけどお前と俺は同じ誕生日…俺が出来てお前が出来ない理由はない。本気で一か月やってみろ!お前が本気でやるなら俺は全力でとことん付き合うから来月65万を売り上げて社員になれ!65万売ったら俺が部長に掛け合って社員に必ずさせてやる!どうする?やるか?」と…。

単価2万5000円程の商材で1ヶ月20万円しか売れない私が、明日からの1ヶ月で65万売れる根拠なんかその時に一つもありませんでした。

でも私は上司に「65万やります!」と約束したのです…。

これで無理ならもう無理だ!と思うくらいやってみよう!ただそれだけを信じて言いました。

それからはがむしゃらに無心で仕事をしました。

当時私は24歳…

65万円の目標を15日程でクリアし、最終着地143万円を売り上げる事が出来ました。

本当に当たり前の事を当たり前にやっただけでこの変化でした。

この時にやったことを書き出してみたのでよかったらご覧ください。

「本気でやればできる!」という言葉を立証させたような気がしました。

1日でこんなにも人が変われるのか?とこれもまた信じがたい内容ですが実話です(笑)

④第3の人生?~くれよんとの出会い~(36歳~)

私はこうして電話営業に始まり「電話の向こうのお客様に会いたい!」と対面の営業に移り、これまで本当に様々な営業を経験させて頂きました。

初めての電話営業から対面の営業。

BtoCからBtoB。

飛び込み営業からルート営業に近い営業。

有形商材から無形商材まで…

そこから十数年が過ぎ、これまで経験したことや感じたこと、疑問などを元に私は一つの事業を始めました。それが「おしごとメディア」というHR領域の課題解決を目的とするメディア事業です。

このメディア事業の広報活動の一環で私はTwitterを始めたのです。

そしてそのTwitterで社長の稲田に出会ったのです。

「仕事のリアルを届けミスマッチの無い世の中にしたい!」そんな想いで始めた「おしごとメディア」だからこそ社長がツイートしていた「職人のリアル」が私には輝いて見えました。

そんな社長のツイートをたまたま私が引用RTしたことが本当の始まりです。

当時の事はいまだに覚えています。

その後、SNSだけでなく、リアルに会う機会を経て一段と親しくさせてもらうようになりました。

そんな突然の出会いに合わせたかのように、私がくれよんに入社することになった経緯も本当に突然でした。

それは「おしごとメディア」の企画で「ミスマッチ警察」という企業を知る為のWeb番組をしています。

「電気工事士を広めたい!」という社長の想いを知っていたこと、それに対して真剣に常に尽力していることを知っていたので「私が何か力になれたら…!」と番組の初回ゲストとして社長に出演依頼をお願いしました。

その番組の打ち合わせで雑談をしていた時です。

まさかと思うと思いますが…この時に「くれよんへの入社」が決まりました。

これは私が一番驚いていたと思います(笑)

本当にたまたま話していた雑談の中でこんなことあるのですね…。

私が冗談で社長に言ったのです。

「稲田さん!私がお給料を頂けるのであればくれよんで働きます!」と…

よくもま~私も言いましたよね(笑)転職したいなんて1ミリも思っていなかったし、ましてや私は「東京在住」くれよんは「大阪の会社」…どう考えても引っ越しが伴うにも関わらず…

今思うと冗談だったからこそ言えた言葉でもあると思えます。

「本当に言ってみるもんだな…」と思います(笑)

そんな私に対して、これまた社長が更に凄いのです!!

社長は「え?今、なっつん人材紹介の会社にいるんじゃないの?」と言うのです。

確かに少し前までは人材紹介の会社にいて、その時に「おしごとメディア」を始めました。

正直、人材紹介の仕事は業務上相当時間を使います。

そのことから「おしごとメディア」をするための時間確保が必要となり人材紹介の仕事から離れていました。

そのことを社長に話すと、

「なっつんがミスマッチを起こしている!!くれよんで人事と広報を立ち上げてほしい!」と言うのです。

ただ、私は「おしごとメディア」は一生かけてもやり遂げたい事業。

だからこそ社長に「おしごとメディアはやめません!!」と伝えました。

もちろん、副業なんて許して貰えるとは思っていません。

だからこそ…即答で伝えたのです。

そしたら社長は「やめる必要ない!おしごとメディアもやろう!くれよんもやろう!!」と言うのです。

も~ここまでくると冗談が冗談じゃなくなった感じですよね(笑)

こんなことあるのですね…本当に…。

内心、これまで頑張っていてよかったな…と思いました。

その反面、凄く大きな役割を頂いてしまった…とも感じました。

あまりの大役に一晩真剣に考える時間を頂き、様々なことを考えました。

おしごとメディアの事、今いる職場の事、引越しの事、将来の事…など本当に考えました。

でも…どう考えても私の答えは「行く!」にしかなりませんでした。

翌朝、私は社長に「くれよんに行かせてください!」と連絡しました。

社長は即答で、

「知ってるよ!そのつもりだったし!もし断っても無理!って言うだけだったから!(笑)」と笑うのです。

さすがキャラ強なお方です。これがくれよんの社長です(笑)

こんなふざけたような社長ですが、内には本当に強い想いと温かい心を持っています。

こんなに大きく大切な社長の想いを形にしていくメンバーに私を迎えてくれたこと…本当に感謝しています。

だからこそ私は「社長の想いを絶対に形にする!」と決意し「株式会社くれよん」に入社しました。

2.くれよんに行くと決めた理由

今ほどお伝えしたように、本当に突発的と言ってもいい程、急にくれよんへの入社が決まりました。

ここからは、くれよんに入社すると決断する前に一晩真剣に考えた事をあえて記してみようと思います。

もし進路に迷い、色々悩んでいる方がいるとしたら…この部分が少しでも参考になったら幸いです。

少し前、Twitterで「私がくれよんに入社した理由」を公開しました。

その中でも記したのですが、私がくれよんに入社しようと決めた理由は2つあります。

1つ目は…この業界での広報や人事を確立させたら、どの業界でも通用し私の経験として財産になると思ったから。

2つ目は…社長の従業員愛が本当に強く、一人一人の可能性を誰よりも最後まで信じ諦めない方だと本気で感じたから。

この2つの理由を具体的に書いていこうと思います。

まずは1つ目の「この業界での広報や人事を確立させたらどの業界でも通用し私の経験として財産になると思ったから」について書きますね。

もし、くれよんが「IT業界」や「コンサル業界」など今注目されている流行の業界だったら…?

私はくれよんに行くと決断することは無かったかもしれません。

その理由はシンプルに「私である必要がない」と思うからです。

人気職だったり人気業界だったら、そのポジションの希望者も多いはずです。

更に人事としても広報としても、ある程度勝手に認知付けもできていたり既に知られていたり…

極論、誰がやってもある程度成果を残せるだろうな…と根拠は全く無いですが思ったのです。

でもこの「電気工事業界」は違います。

正直「不人気」どころか「知られてすらない」そんなところに位置しているような職です。

「不人気」になれるほど「認知すらされていない」まだまだ未開拓な荒れ果てた畑のような業界です。

そんな業界の広報と人事…大変以外の何物でもないですよね?

きっと現在、人事や広報をしている方々でもちょっと行くのに勇気がいるようなニッチな業界だと思います。

それくらい困難が予想される業界だからこそ「私じゃなきゃだめだ!」と思えたし、私がこれをやってみせたら何よりも私の財産になる!「チャンスだ!」と本気で感じたのです。

逆張りで何度も自分に問いました。

「〇〇かもしれない」とか「実は〇〇だったら…」とかあらゆるデメリットを自分に投げかけました。

それでも最後に出る言葉は決まって…

「それ乗り越えたら私の財産になる!」で、それしか出ませんでした。だからこそ入社を決めました。

こんな簡単なように記していますが、本当に困難しかないと今でも思っています。

でもこの困難しかないと感じるような不安を「安心」に変えてくれたのが2つ目の理由です。

2つ目の理由は「社長の従業員愛が本当に強く一人一人の可能性を誰よりも最後まで信じ諦めない方だと本気で感じたから」

こんな困難だと分かっている道のり…私一人で出来るなんておこがましく、更に立ち上げは経営者や従業員からの信頼や理解なども重要です。

それを無くして出来上がるなんて不可能だと私は思っています。だからこそ私には「人」が大事だったのです。

私が言うのもなんですが本当にくれよんは全員「人間が良い!」

誰が?とかではなく「全員」です!

もちろん1人1人独特な個性があります。でも皆、心が温かく人間味のある人ばかりです。

そしてその中でも一番温かい心を持ち人間味がある人…それが社長の「稲田弘樹」なのです。

社長は本当に温かく、誰からも愛されるような方です。

もちろん厳しい面もあります。

でも人格を絶対に否定しない。従業員1人1人の良さを本当に理解しようとする。

相手が誰かのことを悪く言ったとしても、絶対に褒める所を1つ以上見つけ伝える。

そんな人がくれよんの社長なのです。

「今出来なくてもいい。諦めるな!」と一緒に戦ってくれます。

そしていつも私が辛い時、苦しい時、踏ん張らなくてはならない時に決まって社長は言うのです。

「なっつん!一緒に頑張ろな!」と…

そんな強い味方いますか?

こんな重大で大きな任務を立ち上げで成し遂げなくてはならない…

ニッチな業界で認知すらされていない業界の広報と人事を確立させる!

そんな大きな役割を全うするのに…こんな強い味方いますか?

そして社長だけではありません。

こんなにも温かい社長について来る「職人達」がいます。

これだけ強い味方がいたら、ちょっと弱気になりそうな大きな役割も「できる気」しかしなくないですか?

私は「やってみせる!今無理でも必ずこのメンバーなら出来る!」と思わせて頂いたのです。

そして必ず皆に「なっつんが来てよかった!」と思ってもらい、本当の意味でくれよんの一員になりたい!と思ったのです。

だから私はこんな無理難題にも思える大きな役割を未経験で引き受け、長年生活した東京のちを離れ全く土地勘のない大阪に来ることにしました。

多くの方に驚かれました。

「良く決意したね!」とまで言われたこともありました。

私はこの大きな役割を果たした時…こんなに最高な社長と最高な職人達、更には今後仲間になる新たなメンバーと全員で…一緒にうれし涙を流したいです。

3.今後の展望と広報・人事としての課題

ここまで私の事や想いなどを沢山記してきましたが、この私に課せられた役割を成し遂げる事はそんな簡単ではありません。

なんなら時間も体力も何もかもが足りないのではないか?と思うくらい本当に大きく難しいことだと思います。

例えば、この業界や仕事を「知らない」を「知る」に変えていくこと。

これは簡単なようで本当に難しいです。どんなことも「伝わっているようで伝わってない」ことが本当に多いからです。

だからこそ…くれよんでは「ひと想いの循環」として守るべき価値観を掲げています。

しっかりと「想いを投げ続ける」「諦めない」「受け止める」「返す」これを循環させることでコミュニケーションは成立し、相手にしっかりと伝えることができると考えています。

1回や2回といった短期間でできるわけは無く、本当に数年がかりで行っていかなくてはいけないことだと思います。

何度もお伝えしているように、この業界や職種の認知度は低く更にはマイナスなイメージまであります。

そんな中で私たちくれよんでは「電気工事士を色めく仕事に」していくことをVISIONに掲げています。広報としても人事としても本当に高いハードルがいくつもあります。

ただ、困難ばかりなわけではないはずです。

しっかりと現実を伝えることでリアルを知り、そこにあるニーズを自分ごとに当てはめて頂けるよう…私たちがありのままをさらけ出す!そのことできっと変化はあると思っています。

周囲の認知の課題だけではなく、従業員の成長と増員、会社の利益向上や労働環境の整備等…

本当に沢山の課題がある中で、一つ一つ取り組んでいきたいと考えています。

コツコツ積み重ねることで「電気工事業界が色めく仕事に」なる日がいつかきっと来る!そう私は信じて頑張ります。

4.最後に…

ここまで読んで頂きありがとうございました。

くれよんに関係のない、私のこれまでの事も多く記してあると思います。

その理由としても今の私を作った「素」であり、私にとっては無くてはならない軌跡だからこそあえて記させて頂きました。

「順風満帆な人生ではない…」だからこそ私を見て自信を持ってもらいたいのです。

皆さんにも「チャレンジ」してほしいのです。

こんなにも大きな役割を引き受けた私のこれからを見ていてほしいのです。

そして、全力で頑張るので応援していてほしいのです!

私は自慢できるようなことは何一つない人生です。

でも諦めず誰もができる努力を必死にしてきました。

だから「今」があると思います。

まだまだ未熟者の私です。これからも必死に頑張っていきます!

そして、私の大好きなくれよんや社長、職人達が色めくよう…見守っていてください。

これからも私たちくれよんを…よろしくお願いいたします。

この人についての記事です

朝妻奈月
  • 特殊能力:炸裂の母性
  • 入社年度:2022年
略歴

青春をダンスに捧げたガチダンス女子/成績は日本2位&全米3位/卒業後は名門レストランでシェフの道へ/でも甲殻アレルギーで挫折/負けん気で営業へ転身/多方面で圧倒的営業成果を確立/おしごとメディアの創設者/稲田の唐突な誘いに即答し東京からくれよん広報人事担当に就任

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